美術館の楽しみ方
一人でいることを好む人間にとって、美術館はとても居心地のよい空間だ。 他人に「美術館巡りが趣味だ」と語ることはない。特に芸術に詳しいわけでもなく、ましてや作品を自ら制作するわけでもない。ただ一人で気が済むまで眺め歩くことが好きなだけなのだ。そこには何の生産性もない。だから、他者に理解してもらうとすることは難しい。
孤独が好きというわけではないが、人に合わせるのはあまり上手くない。それでも仕事ではこれまで、さまざまな人に接してきた。相手に合わせようと意識したときもあれば、あえて合わせないときもあった。
だからこそ、一人の時間を心から楽しめる場所が好きになる。
美術館で展示されている作品を眺めながら、ぼんやりと物思いに耽る。作品から受ける刺激によって思考が活性化され、自分の中で別のエネルギーへと変換されていく気がするのだ。
都会の美術館で開催される人気の企画展では、混雑もあってこうした楽しみ方がしづらいことが多い。だが、地方の美術館であれば、驚くほど寛いで鑑賞できる。作品や作者が有名である必要はまったくなく、孤独な魂に何かを静かに訴えかけてきてくれさえすれば、それで十分なのだ。
自然に囲まれた美術館
長野県にある「東御市梅野記念絵画館」は、何度も訪れているお気に入り場所だ。 市街地を離れ、車で山道を進んでいくと、まるで現実から遠ざかっていくような錯覚すら覚える。やがて湖を見下ろす森の中に、その美術館はひっそりと姿を現す。
展示されている作品は、決して世間一般で有名とは言えない。むしろ無名か、現在では忘れ去られてしまった画家の作品ばかりだ。しかし、そこには絵画を心から愛する人の情熱がある。作品と、それを見出した人の想いが濃密に感じられる――ここはそんな美術館だ。
そこで毎年開催されているのが「私の愛する一点展」である。 市井の愛好家が自分のお気に入りの作品を持ち寄るようにして作られた展覧会で、ここでしか出会えない作品ばかりを楽しむことができる。毎年とまではいかなくても、ここ数年何度も足を運んでいる展覧会だ。
ただ、少し気になるのは、以前に比べて出展作品数がずいぶんと少なくなっていることだ。出展者の高齢化などが影響しているのだろう。また、若い世代にとっては絵画を蒐集して楽しむような余裕や環境がなくなっているのも影響しているのだろうか。
勝手な親近感
何度も足を運ぶうちに、好きになり名前を覚える画家も増えた。
櫻井陽司の作品は、いつでも暗闇の中で放たれる妖しい光のように輝いている。 島村洋二が描く貌(かお)には、逆にこちらが観察されているような凄味がある。 ジル・サックシクが描く静寂は、いつだって心地よい。
今回も、ここでしか出会えない好きな作家たちの作品を存分に堪能することができた。 さらに今回は、新たに「河野扶(こうの たすく)」の作品を知るという収穫があった。
「無題 I」と題された作品には、厚く絵の具が盛られている。そこにはかつて何かが描かれていたはずなのに、ギリギリ判別できなくなるまで削ぎ落とされている。暗く、重く、静かで、何か謎めいた作品だ。 併設された別室では「河野扶展」も開催されており、他の作品もあわせて鑑賞することができた。深い内面を見せているのに、誰もその奥底をうかがい知ることができない――そんな作品の放つ迫力に強く圧倒された。
孤独を癒す空間
世間からは忘れられかけている画家。 そして、そんな画家の作品を愛おしく思う蒐集家。
芸術すらも投資の対象になりがちな現代において、富や名声とは無関係に「純粋に好きだから、その魅力を誰かに伝えたい」という想い。この美術館に身を置いていると、そんなまっすぐな気持ちがひしひしと伝わってくる。
作品を描いた画家たち、そしてその作品を愛する人々が抱える「孤独」。決して人間が嫌いなわけではないけれど、社会にうまく溶け込むことができない――そんな静かな孤独感だ。
言葉を交わさずとも、作品と展示を通じて、孤独なもの同士が静かに交流する。 美術館が孤独な心にとっての癒しの空間になるのは、きっとそんな理由からなのだと思う。


コメント