紡がれる謎に隠された物語
ダリは不人気なのか?
ダリの作品をまとめて鑑賞する機会は、案外少ない。 ピカソやゴッホに比べても知名度は決して劣らないはずなのに、日本で開催される企画展は少ない気がする。 山梨県の南アルプス市立美術館で開催された『サルバドール・ダリ版画展 -奇想の迷宮-』を観ながら、ふとそんなことを考えた。
だからこそ、版画作品を中心に約200点が並ぶ今回の展示は見応えがあった。 しかし、ダリの作品は1点1点に意味深な謎が込められており、これほどの数があると、鑑賞しているうちに集中力が途切れ、思考が停止しそうになる。
ピカソにだって難解な絵は多いが、彼は「わからないのは当然だ、考えるだけ無駄だ」と超然と睥睨し、突き放してくる。 だが、ダリは違う。 「これくらい、わかるよね?」 そう挑発されているようで、見る側も「少し考えれば何か分かりそうだ」と、つい意味を読み解こうとしてしまう。
比較的ラフな版画作品ですらこれなのだから、もしこれが大型の油彩画ばかりだったら、途中でショートし、ぶっ倒れてしまうかもしれない。
展示する側としても、その「謎」をどう見せるか、どう組み合わせるかの構成が非常に難しいはずだ。企画者も観客も、みんなしてダリに振り回され、疲れ果ててしまう——意外とそんなところに、ダリの単独展が少ない理由があるのかもしれない、と勝手な想像を楽しんだ。
人生最初の巨匠
私にとってダリは、幼い頃に初めて「画家」として意識した一人だった。 『記憶の固執』や『セックス・アピールの亡霊』を教科書や美術事典で見たとき、その絵の異質さと「ダリ」というシンプルでインパクトのある名前が深く刻み込まれた。
当時、ダリはまだ存命だった。 画集の中にいる多くの画家たちが過去の歴史上の人物だったのに対し、ダリは教科書の中に掲載されていながら、いま同じ時代を生きている巨匠だった。 今回の展覧会でも1970年代の作品を観ることができる。彼と同じ時代をわずかでも共有していたのだと、改めて実感させられた。
正直に言えば、「ダリの作品が好きだ」と素直に口にできない時期があった。 ダリという芸術家は、作品以上に本人の存在感が大きすぎたのだ。あの特徴的な髭、奇矯な言動、妻ガラとの関係、そして「天才」を自ら演じる強烈なセルフプロデュース力。 そのため、「ダリが好き」と言うこと自体が、どこかミーハーで軽薄なことのように思えてしまったのだ。
それでも、作品そのものにはずっと惹かれる何かがあった。ダリの絵に触れるたび、その「何か」が気になり続けてきた。 そして時の経過とともにダリ本人の強烈な個性が少しずつ薄れ、ようやく遺された作品そのものの価値が素直に見えてきた気がする。 今回、彼の版画作品をまとめて鑑賞したことで、長年胸に引っかかっていた「何か」の正体が、少しだけ分かった気がした。
ダリの「謎」
ダリの作品に魅せられるのは、ずっとその「謎」のせいだと思っていた。 写実的なのに奇妙でグロテスクな世界。重いものが軽く描かれ、硬いものが柔らかく垂れ下がる。視点を少し変えれば、騙し絵のように新たなイメージが浮かび上がる。 シュルレアリスムとして語られる無意識の絵画的表現は、常に謎めいている。心の奥底の無意識が抱く不安を目の前につきつけられ、どう受け止めてよいか分からなくなる——そんな面白さがある。
しかし、謎を描く画家なら他にもたくさんいる。 デ・キリコやマグリットが提示する謎は静的でありながら、ダリのそれよりも深く潜んでいる気がする。 それにもかかわらず、なぜダリの絵はこれほどまでに人々を惹きつけるのか。それは、彼の絵が力強い「物語性」を宿しているからではないだろうか。
謎を物語る世界
ダリの絵には、物語が隠されている。 今回の展示では、ダンテの長編叙事詩を描いた『神曲』の100枚におよぶ版画連作を観ることができた。 ダリがダンテに触発されて描き出した世界には、どこかグロテスクでありながら圧倒的な美しさがある。一枚一枚に独立した魅力があり、原作の『神曲』を読んでみたいと思わせる力があった。
『毛皮を着たヴィーナス』『ダフニスとクロエ』『パンタグリュエル』、果ては『日本の民話』まで、文学や物語に着想を得た作品が数多く展示されており、そこには油彩画とはまた異なる伸びやかな躍動感があった。
ダリの作品は、その一枚の中に物語を秘めている。 たとえば『神曲』地獄篇 第一歌「魅惑的な山(旅のはじまり)」を観る。 赤い衣を纏った小さな人物、遠くへ伸びて地平線に消える一本の道、遠近感を狂わせる山が描かれている。比較的シンプルな構成の1枚だが、描かれた人物がダンテであり、いままさに壮大な旅が始まるのだということを観る者に強く訴えかけてくる。
それはダンテの『神曲』の世界でありながら、同時にダリ自身の世界でもある。もしかすると、旅立つダンテはダリ自身であり、これから出会うベアトリーチェはガラ、道案内をするウェルギリウスはピカソやブルトンなのかもしれない。
たった一枚の絵が、観る者にこれほど豊かな物語を連想させてしまう。 ダリの作品には、そうした重厚な物語が「謎」というオブラートによって覆われているのだ。表面上の謎だけに気を取られていると、その奥でダリが紡ぎ出している豊かな物語を見落としてしまう。
その物語が夢なのか空想なのかは分からない。けれど、ダリの作品は必ず何らかの物語のワンシーンになっている。人々はダリの絵と向き合うとき、無意識のうちにそこに潜む物語を読み解こうとしているのだ。
幼い頃の私もまた、ダリの絵に秘められた「謎めいた物語」に魅了されていたのだろう。 きっと、無意識のうちに。
そのことに気づくまでに何十年もかかってしまったが、ようやく自分の中の小さな謎がひとつ解けた気がする。 けれど、ダリの作品が秘めている物語の謎そのものが、完全に解けることは永遠にない。 だからこそ私たちは、何度でもダリの絵を観に行きたくなるのだろう。

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