河野龍太郎著『日本経済の死角』(ちくま新書)を読みながら、考えたこと。

経済学は役に立つのか?
日本経済の長期的停滞の原因を分析する本書を読んでいると、巷でささやかれる「経済学は役に立たない」という主張が頭をよぎる。
確かに、大学などで簡素化された経済モデルを学んだだけならば、現実との乖離からそう感じるのも無理はない。
しかし、経済学に限らずどの学問も「自分自身がどのような問題を解決したいか」がわからなければ、役に立たないのは当然だ。
本書から伝わる著者のメッセージ
著者がマクロ経済の地道な分析を通して訴えかけてくるのは、**「日本経済の長期的低迷の要因は、企業が労働者に報いてこなかったからだ」**という強い事実である。
そこには冷静でありながらも、静かな怒りが滾(たぎ)っていて、非常に読み応えがあった。
私自身が生きてきた時代が鮮やかに分析されることで、まるで推理小説の謎解きを読んでいるような面白さがあった。
低迷する経済と、貧しくなる人々
「日本人は貧しくなった」とよく言われる。
これまで、日本経済の長期低迷の原因は「企業の生産性が低いから」というのが定説だった。しかし、本書が示すデータは全く異なる。
1998年から2023年にかけて、日本の生産性は約30%も上昇しているのだ。
それにもかかわらず、実質賃金はほぼ横ばいで、むしろ約3%下落している。
つまり、企業が生産性の向上で増えた利益を、賃金として還元せずに「内部留保」として貯め込む【収奪的構造】こそが、低迷の原因であると著者は分析する。
企業に貯め込まれた資金は、国内ではなく海外に投資され、国内の消費や投資を生み出さなかった。その結果、有効需要が伸びず、経済の低迷が続くこととなる。
かつてメインバンク制度が崩壊した際、企業は従業員の長期雇用を維持するために、賃金を低く抑えて資金を蓄えた。
本来は従業員を護るための措置だったはずだ。しかし、いつしか「長期雇用の制度そのものを維持すること」が目的化し、様々な弊害を引き起こすこととなった。
長期雇用(正社員)の枠が減った
派遣社員やパート、アルバイトなどの非正規労働者が増加した
不安定で低賃金の労働者が増えれば、当然、社会全体の消費は拡大しない。
労働市場の変化、IT革命によるイノベーション、海外投資の増加。これらは企業に膨大な利益をもたらしたが、大多数の国民には恩恵を及ぼさなかった。
結果として多くの人が低賃金に甘んじ、緩やかに貧しくなってしまったのだ。
氷河期世代の閉塞感
1970年代の前半に生まれた私は、大学を卒業する90年代半ばに「就職氷河期」の始まりをリアルタイムで体験した。
大企業が採用を極端に絞る
中小企業の説明会に一流大学の学生が現れる
公務員試験に応募が殺到する
これまでのルールが、ある日突然、強制変更されてしまった。私たちは、まるで閉ざされたシャッター街を歩くようにして、働ける場所を必死に探し求めた。
諦めて留年したり、大学院に進んだり、フリーターになって景気の回復を待つ同期もいたが、状況は悪化する一方だった。
生産拠点は海外に移り、安価な商品が大量に輸入される。あらゆる企業が価格競争に走り、デフレが進行した。そして企業のその価格競争力を「長時間のサービス残業」という労働者の見えない犠牲が支えていた。
そこへIT革命が起き、パソコンが普及する。これまでは事務職が分担して行っていた仕事まで、各自が自分でこなさなければならなくなった。
イノベーションは不要な人員を生み出し、結果として「残った一人当たりの仕事の負担」を増大させた。
給与は上がらなかった。それを、いつしか自分たちも「いくらでも替えの効く消耗品」だからと、諦めて受け入れていた気がする。同僚たちが何人も限界を迎えて脱落していくのを、私は横目で見てきた。手を差し伸べる余裕すらなく。
働くことの厳しさと、虚しさが「引き籠り」のような問題をひこおこした。
テロ、自然災害、経済ショック、そしてパンデミック。 激動の時代を経験しながらも何とか乗り越えてきた。運がよかったとつくづく思う。
それでも困難を乗り切るにあたり、冷静に世の中の流れを読み、分析できる「経済学の知識」は、確かに役に立った。
資本主義社会を生き抜く「サバイバルツール」
本書では、企業が賃金を増やすことを提言している。一方で、問題の根底にある「雇用制度の改革」については、そこまで詳しく触れられていない。
なぜなら、賃金の増減は、安定した雇用との「トレード・オフ(相反)関係」になるからだ。
AI革命が急速に進行する現代では、雇用の流動化はさらに進み、ますます安定しなくなるだろう。今の仕事にしがみつくだけでは、いつ居場所を失うか分からない。
すでに世の中は、「真面目に定年まで働き、貯金さえしておけば大丈夫」な時代ではなくなってしまった。
変化に対応するための知識や技能(リスキリング)
リスクを取った資産運用
これらから逃げることはできない。さらに言えば、今後は格差拡大による治安悪化に備えるなど、安全のための「新たなコスト」まで生じるかもしれない。
激変する今を生きる上で、何が必要かを客観的に考えるための「サバイバルツール」として、本書のような刺激に満ちた経済書は非常に有効だ。
時代の犠牲にならないために、一人でも多くの人に読まれることを期待したい。

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