こびりつく映画の記憶をもとにした考察

映画が残す後味
「クライム101」を鑑賞してから数か月が過ぎた。
シネコンでは人気作が長期上映される一方で、話題性が乏しい作品はさりげなく幕を閉じてしまう。娯楽や芸術にすら市場経済の原理を感じさせる、シビアな世界だ。観たいと思っていた作品も、気づけば上映を終えていることが少なくない。 本作もそれほど大きな話題にはならなかったため、見逃していたとしても不思議はなかった。そんな映画があったことすら忘れて思い出すこともなかっただろう。
鑑賞直後の感想は「面白かった」程度で、深く感動したという自覚はなかった。しかし、ずっと、言葉にならない何かが胸にわだかまっていた。 それは、この映画を「クライムアクション」として観ていたせいかもしれない。 アクション以上に、人生の悲哀を描く「ヒューマンドラマ」として、私はこの物語に強く共感していたのだ。
クールで非情だが、どこかお伽めいた世界
舞台となるアメリカ西海岸の乾いた空気が、高度資本主義社会に生きる人々の虚しさや孤独を浮き彫りにする。 一匹狼の宝石強盗デービスは、結婚式を控えた富豪を狙い、最後の大仕事の計画を練る。彼を追う刑事のルー、保険調査員のシャロン、横取りを狙うオーマン――。それぞれの思惑が絡み合い、物語はラストまで140分の長さを感じさせない緊張感を湛えていた。
スリリングな展開もさることながら、登場人物の造形が見事だ。クリス・ヘムズワース演じるデービスは、幼少期の貧困から経済的成功を求めて犯罪に手を染めるが、殺しは行わないという独自のルールを貫く。だが、富を追い求めるほどに、内面の空虚さは増していく。 非情な現実に紛れ込んだ「非情になりきれない悪党」の姿は、時折お伽噺のような浮世離れした感覚をもたらす。それが際立つのは、彼を追う刑事のルーや保険屋のシャロンが、主人公以上に切実な「現実味」を帯びていたからだ。
染みる人生のやるせなさ
二人は共に50代半ばから後半。有能ではあるが、キャリアと人生の限界がうっすらと見えてきている。蓄積された疲労、苛立ち、そして諦めの悪さ。 マーク・ラファロ演じる刑事のルーは、組織内の政治や汚職の中で孤立し、家庭でも妻との関係は破綻している。それでも孤独に、義務感からデービスを追い詰める。 ハル・ベリー演じるシャロンは、向上心が高く野心的だ。しかし、会社では昇進を見送られ続け、若手に居場所を奪われ、女性としての魅力の衰えにも焦りを感じている。
50代とは、肉体の衰えとキャリアの限界を突きつけられ、人生の「終わり」を意識し始める時期だ。それでも意地だけで足掻こうとする彼らの姿に、私はつい自分を重ねてしまった。かつて夢見た主人公のような「カッコいい生き方」ができなかった、自分自身の人生を観せられているようだった。
代償としての開放感
私自身も50代半ばで、20年以上勤務した職場を辞めた。 経営方針が変わり、コストカットばかりが先行し、その先の成長戦略が見えない組織。競争力を失い、現場が疲弊する中で上層部と協議を試みたが、返ってきたのは役職解任と異動の指示だった。 退職したとき、悔しさと不安はもちろんあったが、それ以上に、長く忘れていた「開放感」を覚えた。
映画のラスト、若い主人公には新しい生き方の予感が示される。一方、仕事を失ったであろうルーとシャロンの表情にも、私が感じたあの開放感に似たものが浮かんでいるように見えた。 映画の楽しみ方としては邪道かもしれない。しかし、私はこの脇役たちに「人生の同僚」のような親近感を覚えてしまう。彼らはどうしているだろうかと。古い友人の近況を案じるように、今もふと彼らの行く末に想いを馳せている。

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