
「一次元の挿し木」(松下龍之介著 宝島文庫)を読み終えその面白さと、個人的に感じた物足りなさについての考察した。
ハイブリッド型エンターテインメント
サイエンス、サスペンス、ミステリーを巧みにブレンドした本作は、まるで癖がなく飲みやすいウイスキーのような小説だった。ソファに腰かけて、初めから終わりまでドキドキ、ワクワクと「危機」と「謎」を楽しめる。
物語は現在と過去を自在に行き来し、一つの謎が解ければ、また新たな謎が輪郭を現す。どこか妖しげなヒロインは魅力的であり、背後には謎を追う者たちを次々と始末する不気味な存在が影を落とす。
科学的SF要素とミステリー要素を掛け合わせた計算高いプロットに、読者はまんまと引き込まれることだろう。だが、読み終えた後の満足感に浸りながらも、時間を経るにつれどこか「もったいない」と感じてしまうのは私だけだろうか。
映画を観るような読みやすさ
物語の引きは強烈だ。失踪した妹の遺伝子情報が、ヒマラヤ山中で発見された200年前の人骨と一致する。主人公はその不可解な謎を追うが、秘密に触れた関係者は次々と消されていく。やがて真相に肉薄した主人公自身も、逃げ場のない窮地へと追い詰められていく。
ネタバレを避けるため詳細は伏せるが、おそらく多くの読者は、早い段階で妹の正体に見当がつくだろう。それでも、最後までページをめくる手を止めさせないのは、著者の巧みなストーリーテリングの賜物だ。
数年前、書店の平積みで本作を手に取った理由は、その考古学、遺伝子工学の科学的なガジェットへの興味だった。当時は「内容が難解かもしれない」と二の足を踏み、しばらく積読(つんどく)にしていたのだが、実際は驚くほどスムーズに読むことができた。
科学的な解説は会話劇の中に自然に組み込まれ、専門知識がなくても容易に理解できるよう工夫されている。文章は会話中心でテンポが良く、主人公が映画好きという設定を反映たわけではないのだろうが、場面転換のカット割りが極めて映画的だ。
この「サラサラとした読みやすさ」は、本作の最大の長所である。しかし同時に、それはある種の物足りなさの正体でもあった。
悲劇を生み出した本質
本来、この物語は「科学的発展と生命倫理」という重厚な哲学的テーマを内包していたはずだ。
しかし、ストーリーのスピード感を優先するためか、事態は悲劇として描かれはするものの、それ以上の深掘りはなされない。その結果、登場人物たちが物語を進行させるための「操り人形」のように見えてしまう瞬間がある。
だが、これはこの小説の罪ではない。魅力的なコンセプトに触れたことで、読み手である私が勝手に壮大なテーマを期待してしまったのだ。
ある種の読書では、一行読んで立ち止まり、考え込み、また頁をめくる。そんな知的格闘を伴う愉しみがある。しかし本作において、その愉しみは「読みやすさ」という代償と引き換えに、削ぎ落とされているように感じる。
小説は面白さだけで生き残れるか?
小説を読むという行為は、たとえ娯楽であっても、本来は「苦痛」を伴うものだ。活字からイメージを膨らませ、複雑な因果関係を脳内で結びつけなければならない。疲弊しているときに内容が頭に入ってこなくなるのは、それだけ脳のリソースを消費するからだ。
単にストーリーの快楽を享受するだけなら、映画や漫画の方がはるかに手軽で優れたメディアといえるだろう。今の時代、映像も活字同様に手軽に持ち運ぶことができる。
今後、AIによって「読みやすく、面白いストーリー」が量産される時代が来るかもしれない。しかし、どれほど洗練されても、小説が映像作品の手軽さに勝ることは難しいだろう。ならば、私たちはこれからの小説に何を求めるべきなのだろうか。
『一次元の挿し木』は、間違いなく面白い作品だった。読んでいる間、私の目の前にはスクリーンに映しだすように鮮やかな情景が浮かんでいた。 しかし、どれほど恐ろしい底知れぬ深淵をのぞき込んだとしても、それが「モニター越し」である限り、足がすくむことはない。
ある種の小説は、読者の深淵をのぞかせ、強烈に足をすくませる。それは必ずしも高尚な文学作品に限った話ではない。これからの時代、そんな「安全な鑑賞」を許さない、身体的な揺さぶりをかける小説がより求められるのではないか。
大量生産・大量消費の波に埋もれ、いつか読まれるのを待っている「足をすくませる一冊」。私の本棚にも、そんな一冊が埋もれているかもしれない。そう思うと人生が楽しくなってくる。

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