【負け犬の魅力を纏うオースティン・バトラー】
不運な青年が成り行きで犯罪に巻き込まれ、逃げ回り、裏切られ、反撃に転じる。一言で言えばそんな映画だ。ヒッチコック作品をはじめ、映画における王道パターンの一つと言える。
この手の映画は「味付け」を楽しめるかどうかで、面白いと感じるか、ありきたりと思うかが分かれるが、私にとっては存分に楽しめる一作だった。
何より、主演のオースティン・バトラーの「頼りないハンサムぶり」が良い。 夢破れて自暴自棄でありながら、母親思いで生真面目なナイーブさも持ち合わせる主人公・ハンク。オースティンは、根が善良そうな彼を実に魅力的に演じている。いつやられてもおかしくない青年が、追い詰められて覚悟を決め、敵に立ち向かう姿は結末が見えずハラハラさせられた。
ヒーローではない主人公が観客に愛されるのは、単なる演技力以上に、彼自身の俳優としての資質だろう。ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオのように、長く輝かしいキャリアを期待したくなる逸材だ。
【ストーリーを彩る、強烈な脇役たち】
昨今のハリウッド映画では、多様性への配慮が時に作品の足かせとなることもある。不自然なキャスティングは、観客の興味を削いでしまいかねない。しかし本作では、多様性が登場人物の造形やキャスティングに見事に活かされており、無理なく受け入れることができた。
思惑が入り混じるクライムアクションでは、人物相関が把握できないとストーリーに置いていかれがちだ。特に日本人にとって、外国人の判別や名前を覚えるのは難しく、人間関係の複雑さが壁になることも多い。 だが、本作の脇役たちは主人公以上に個性的で、その心配がない。
パンクなモヒカン、スキンヘッドに革ジャン、黒丸帽子にスーツのヒゲ男……。ステレオタイプな人物像を、俳優たちが活き活きと演じている。テンポの良い展開は、こうした魅力的な脇役たちが入れ替わり立ち代わり現れ、ハンクを振り回すことで加速していく。ある意味、「脇役の個性」で成り立つ映画とも言えるだろう。また、人間の愚行を冷めた態度で見守る「猫」も、実にいい味を出していた。
【90年代へのノスタルジーと、当時の空気感】
物語の舞台は、1998年のニューヨークだ。 私にとって90年代は「つい最近」のように感じられるが、実際には30年近い月日が流れていることに改めて気づかされる。時代はずいぶんと変わってしまった。
インターネットが普及する前夜。今見ると不便でレトロな暮らしだが、アナログだからこその活気に満ちていた時代。当時の物騒で雑多なNYの雰囲気が見事に再現されている。 サウンドトラックに流れるオルタナティブ・ロックが、当時の空気をさらに引き立てる。ザラついていて、どこか愁いを帯びたサウンド。こればかりは、当時を知る世代にしか味わえない特別な感覚かもしれない。
氷河期世代の私は、当時20代後半で、主人公のハンクと同年代だった。彼と同じように、何者かになれる逆転のチャンスを求めながら、どこか無為な日々を過ごしていた記憶が蘇る。
【暴力が突きつける現実感と、現代への危惧】
クライムアクションとして十分に楽しめる本作だが、個人的には描写される「暴力」の質について考えさせられた。 もし主演がジェイソン・ステイサムやドウェイン・ジョンソンであれば、暴力は一種の「様式美」としてエンターテインメントに昇華されただろう。しかし、本作の暴力は登場人物以上に生々しく、リアルだ。それは確実に、大切な何かを奪ってゆくものとして描かれる。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』「ワン・バトル・アフター・アナザー」などの近年のハリウッド映画にも、共通する暴力性を感じる。これは、現実世界に暴力が蔓延していることの反映かもしれない。 イランのデモや米国の抗議活動、そして終わりの見えない戦争や紛争。世界中でナショナリズム的な危機感が高まっている。
ITやAIの発展は社会を豊かにしたが、同時に格差を広げ、問題を複雑化させた。利害対立が複雑すぎて思考停止に陥った人々が、閉塞感ゆえに「暴力的な解決」を無意識に求めてはいないだろうか。 映画の中の理不尽で安易な暴力描写を観ていると、そんな不安が脳裏をよぎる。
ハンクは暴力によって多くを失う。たとえ何かを得たとしても、その代償はあまりに大きい。 90年代を生きていたあの頃、私はこんな現在を未来として予想していただろうか。スクリーンに映し出される暴力は、現代を生きる私たちが抱える、無意識の願望や恐怖を映し出しているように思えてならない。


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