映画「ニュー・シネマ・パラダイス」 30年越しの感動と、現実の30年

映画を楽しむ

はじめに:映画館で観るべき一本

内容はうろ覚えでも、あるワンシーンだけを鮮烈に覚えている映画がある。 そして、必ず映画館で観なければならない映画がある。 「ニュー・シネマ・パラダイス」は、私にとってまさにそんな映画のひとつだ。

今回、私は「午前十時の映画祭」での上映に足を運んだ。20代前半に観て以来、およそ30年ぶりの鑑賞。劇中の主人公サルバトーレ(トト)が、アルフレードの葬儀のために30年ぶりに帰郷する設定と、奇しくも同じ歳月を重ねていた。かつて青年期のトトと同年代だった私は、いまや壮年期の彼と同年代になっている。

正直に言えば、若い頃の私はこの映画を、世間で言われるほどの名作だとは思わなかった。しかし、今回の鑑賞でその素晴らしさにようやく気づくことができた。私はこの映画に感動するために、30年という歳月を必要としたらしい。

「別の映画」のような印象の正体

20代の私は、生まれ故郷しか知らないトトのように世間知らずだった。映画の中で子供たちがラブロマンスの上映に退屈するシーンがあるが、当時の私も同じように、青年期の恋愛描写に退屈を感じていた。何より「長すぎる」という印象が強く、ラストシーンの鮮やかさだけが記憶に残る映画だったのだ。

しかし今回、スクリーンを観ながら「こんなにスッキリまとまった内容だったか?」という疑問が湧いた。調べてみると、どうやら昔観たのは約173分の「完全オリジナル版」だったようだ。一方、今回の「劇場公開版」は約124分。印象が異なるのは当然だった。

今の私には、この「語りすぎない」劇場公開版が心地よかった。若い頃は世の中の理不尽に憤り、「努力すれば何とかなる」と信じていた。だからこそ、この映画の根底に流れる「諦念」に共感できなかったのだ。人生の折り返しを過ぎ、多くの理不尽や「諦めて受け入れるべきこと」を経験した今だからこそ、物語の真意が静かに胸に落ちてきた。

歴史と文化が織りなすストーリーの深み

今回、特に惹かれたのは映画の背景にある時代性だ。 少年期のトトが司祭の手伝いをする場面では、当時のローマ・カトリックの強い影響力が描かれる。禁欲的な司祭が鐘を鳴らしてキスシーンを検閲するコミカルな描写は、あのあまりにも有名なラストシーンへの見事な伏線となっていた。

また、第二次世界大戦の影も色濃い。父親がソ連で戦死したからこそ、トトにとってアルフレードは友人以上の「父性」の象徴となった。発展から取り残された故郷の閉塞感、左翼(共産主義)と保守層の政治的対立、そして教育格差。かつては見過ごしていたこれらの暗い背景があったからこそ、人々にとって「パラダイス座」がどれほど切実な人生の喜びだったかが伝わってくる。

兵役によって仕事も恋人も、そして貴重な青春の時間を奪われる描写も、今の私には重く響いた。これらの歴史的・文化的背景を理解できるようになって初めて、映画の深みが立ち現れてきたのだ。

30年後の映画館:斜陽から再生へ

劇中、30年ぶりに帰郷したサルバトーレは、閉鎖され取り壊されるパラダイス座を目撃する。テレビやビデオの普及によって、映画館が役割を終えていく時代。実際、30年前の日本もレンタルビデオ全盛期で、映画館は斜陽産業だと思われていた。

しかし、さらに30年が経った現在、映画館は健在だ。 むしろ、かつて映画を脅かしたビデオやDVDレンタル店が配信の普及により先に姿を消し、テレビも往時の勢いを失っている。映画館はシネコン形式やデジタル化という適応を遂げ、生き残った。

それだけではない。映画館という空間には、特有の魅力がある。私が初めて映画館で観たのは「スター・ウォーズ」だった。父親に連れて行ってもらい、夢中になったあの時間。今も映画館に行くたびにワクワクし、もう会うことのない父を思い出す。映画館とは、個人の思い出と結びついた聖域なのだ。

映画になぞらえる人生

主人公サルバトーレは、社会的には成功を収めながらも、私生活ではどこか満たされない孤独を抱えている。回想の中の少年期・青年期が、貧しくとも眩いほど輝いているのと対照的だ。

名作は、誰にとっても名作なわけではない。観る側の人生が、その映画に追いついた時に初めて完成するものなのだ。それを30年越しに理解できた気がする。

それにしても、これほどまでに人生の機微を捉えた傑作を、当時30代前半だったジュゼッペ・トルナトーレ監督が作り上げたという事実に、今はただ驚嘆するばかりである。

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