
印象のうすい存在感
SOMPO美術館で開催中の「モーリス・ユトリロ展」を鑑賞した。
平日の早い時間にもかかわらず、館内はすでに多くの人で賑わっており、ユトリロの人気の高さを改めて感じた。しかし、その人気の理由を明確に説明するのは難しい。
コレクション展などで19世紀末から20世紀初頭の人気画家の作品が並ぶ中、セザンヌやゴッホ、ピカソらの強烈な主張を持つ作品群の中にユトリロの絵を見つけると、少しホッとする瞬間がある。
ユトリロの絵は、観る者に強烈な主張をしてくることはない。難しい理屈など何も考えずに鑑賞できる。後になってユトリロの絵が展示されていたことは思い出せるが、具体的にどんな絵だったかは、いつも漠然としか思い出せない。
私にとってユトリロ作品は、このように印象が薄いにもかかわらず、確かに存在するという不思議な存在感を持っている。
近代絵画の黄金時代において、主張の強い個性が溢れる中で、彼のシンプルさが際立ったとも考えられる。しかし、逆にユトリロ作品のみで構成された展覧会では、その魅力が失われてしまうのではないかという懸念もある。だからこそ、今回の展示は、ユトリロの作品の新たな魅力を探る良い機会になるかもしれない。
代表作を持たない巨匠
絵画に興味がある人であれば、ユトリロの名前は知っているだろう。しかし、その作品名を挙げろと言われて、誰もが知る代表作を思いつける人は少ないのではないだろうか。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチなら『モナ・リザ』、ゴッホなら『ひまわり』、ピカソなら『ゲルニカ』のように、画家と代表作がセットで思い浮かぶ。
ユトリロには、それがない。たとえ作品名を挙げる人がいたとしても、それを聞いて具体的なイメージが浮かぶ人は稀だろう。
「くすんだ白い壁の建物」「どんよりとした曇り空」「人気の少ない路」。ユトリロの名前で思い浮かぶのは、そうした共通する漠然としたイメージでしかない。
こうなってくると、人気や知名度に比べ、作品そのものに本当に魅力があるのか、という疑問が湧いてくる。
職人的な風景画家としてのユトリロ
今回の展覧会で特に印象に残ったのは、『オーモン近郊の学校(ノール県)』という作品だ。
枝を広げ緑の葉を茂らせる樹々を中央に、背景には青い空、赤茶色の建物が描かれている。初夏を思わせる季節感があり、人々の笑い声も聞こえてきそうな、明るく豊かな色彩が用いられていた。これは、「色彩の時代」と呼ばれる後期の作品であり、楽しんで描いたような印象を受ける。描かれた地域が戦時下のドイツ占領下にあったことを知ると、占領からの解放感のようなものも伝わってくる。
しかし、今回の展覧会で、このような感情やメッセージを強く伝えてくる作品は、他には見当たらなかった。
ユトリロの描く対象は非常に狭い世界に限られている。描かれたのはパリとその近郊の景色ばかりで、その風景もほとんどが建物で占められている。風景画家というよりも、「建築物画家」と呼んだ方がしっくりくるほどだ。しかも、その絵のほとんどは、まるで静物画のような静けさに包まれている。
観る者は、画家の目を通した景色を見せられるだけであり、そこで画家が何かを熱心に伝えようとすることはない。
ユトリロには、芸術家としての革新性や、新たな表現への挑戦といったものは感じられない。「白の時代」「色彩の時代」といった変化はあるが、それは本人が特に意識せず、自然と変化しただけのように思える。
ユトリロ自身も、「描いたものが売れて、喜んでもらえるのなら、それをたくさん描けばいい」という、芸術家というよりも職人的な画家だったように思われる。実際、写真や絵ハガキを観ながら描いていたことは有名だ。彼は、まるで農家が種をまき収穫するように、あるいは商人が商品を仕入れて売るかのように、絵を描いた画家なのだと思う。
作品の「虚無感」が映し出すもの
展覧会には約70点の作品が並び、花を描いた絵が1点あるだけで、他はすべて建物を描いた風景画だった。
多彩な画家の作品の中で見つけると、安らぎのような印象を与えてくれるユトリロ作品だが、そればかりを連続して見ていると、無力感というか、虚無感のようなものに襲われる瞬間がある。
ユトリロの作品は、観る側の解釈や、観るための説明を必要としない。作品自体が何のメッセージも訴えかけてこないからだ。『モナ・リザ』のように謎のほほ笑みを投げてくるわけでもなく、『ゲルニカ』のような強烈なメッセージを発することもない。かといって現代アートのように観るものを拒絶するわけでもない。
解説によると、当時の人々は、急速に失われていくパリの情景を、ユトリロの絵にノスタルジーとして見出したらしい。また、当時の日本人たちは、パリへの憧れを見出していたのかもしれない。
美術館で観覧する多くの人々を眺めながら、この人たちがユトリロの絵に何を見出しているのか知りたくなった。
もしかすると、ユトリロの作品は、観る側にある何かを映し出す鏡なのではないか。
だとすれば、私がユトリロ作品に感じる虚無感は、私自身の中にある空虚さを映し出しているのではないか。
賑わう美術館の中で、急に孤独感を感じた。
ユトリロの作品を通して、芸術作品が持つ恐ろしさの一端を垣間見たきがした。


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