◎プロローグ:『金枝篇』に誘われて森へ
J.G.フレイザーの『金枝篇』を読んでいると、無性に森へ行きたくなります。
彼が語る太古の森を舞台に行われてきた膨大な傍証事例を読むうちに、森の情景が幻影のように渦巻いてきます。私の中にわずかに残っていた、自然に対する欲求が急に呼び覚まされてきたようです。
あるいは、未知の固有名詞や地名が縦横無尽にあふれる『金枝篇』を読むことに、少し疲れてしまっただけかもしれません。
◎時間から解放される「森の散策」
森を求めて山に行くにも、最近は熊の出没が話題になり、私が住む地域ではイノシシの警戒も必要です。幸い近所に広い森林公園があるので、そこでゆっくり散策を楽しむことにしました。
11月に入り急に気温が下がったためか、紅葉が深まっていました。空は高く澄み、顔に感じる冷たい空気に、少し冬の予感がします。
会社に勤めていた頃、季節は「仕事の物差し」でしかありませんでした。秋になれば冬物の展開を考え、年末の繁忙期のオペレーションや、決算に向けての数字を作ることばかり考えていた。あの頃の時間はいつも無慈悲に流れていました。
会社を辞めると、途端に時間の流れが変わります。
会社で仕事をしていた頃は「考えること」はできても、「感じること」ができませんでした。分や秒単位で動いていては、何かを感じる余裕もなかったのです。
見上げるような樹木の中を、風に吹かれて舞う落葉を眺めながら歩いていると、今度は何年、何十年、何百年といった悠久の時の流れを感じます。そうやって、私は『金枝篇』の世界を体感しているのです。
◎王と司祭の分離に見る古代の権威
読み終えた第1章では、まず「ネミの森」の司祭がなぜ「森の王」と呼ばれたかの究明にあてられています。
古代の人々にとって、自然の恵みと脅威は、生きることに密接に関係していました。だからこそ、自然に働きかける呪術の存在を人々は信じ、呪術を扱う者が権力者となった。初期の権力者は王でもあり、司祭でもあったのです。
時代が進むにつれ、政治や武力的な権威が王に、宗教的・呪術的権威が司祭にと分かれていきます。
そんな視点で日本の天皇制などを考えると興味深いです。おそらく古代では武力的な側面も強かったはずが、やがて天孫として文化や伝統の象徴的存在へと変遷していった。それだからこそ、現在まで続いている可能性すらあるのです。歴史的に見ても武力や政治にかかわると、ろくな事はなかったと思います。
神秘的な力を持つとされた権力者は、畏れ敬われると同時に、もし自然に対して働きかける力がないと見なされると、その地位を追われました。時には残酷な形をもって。
もう、これだけで映画や小説のストーリーが浮かびそうです。
創作者たちに多大な影響を与えたのもわかります。
社会人類学に関心がなかった私も、フレイザーのそれこそ呪術のような執拗な記載と、謎かけにより、強引に興味を掻き立られます。
◎生命を内包する「樹木崇拝」
「森の王」の「王」から「森」へと謎は移ります。
フレイザーは、自然そのものを神とみなした古代の事例を、またしても膨大に語ります。そして、特定の植物に神秘性や霊性を見出す習慣を通して**「樹木崇拝」**へとたどり着くのです。
古代のヨーロッパは森に覆われており、そこに暮らす人々にとって樹木は生活に密接した存在でした。人間の寿命をはるかに超えて存在する姿や、失われても再生する姿に、植物学的知識がない当時の人々が神秘性を感じたのは当然です。日本的な感覚としてもよく理解できます。
後年、キリスト教のような「考えた言葉による宗教」が広まることにより、自然の中に神秘性を感じる人々は「野蛮人」とされてしまうのです。
◎野蛮とは何か?現代の自然破壊との対比
フレイザーの時代よりも現代に生きる私たちは、自然に対して「正しい認識」をしているのだろうかと、考えさせられます。
最近のニュースでは、北海道の釧路湿原周辺で、違法に設置されたソーラーパネルが問題になっていました。全国でも、広大な土地を必要とするソーラーパネルの設置場所として、山間部や草原が選ばれ、自然災害や生態系への影響が指摘されています。
化石燃料を使用しないクリーンエネルギーの恩恵は理解しています。しかし、その裏側で、企業利益や政治的な利権のために景観や生態系が破壊されているのです。
フレイザーが「蛮人」とした古代の人々は、生きるために自然の神秘を崇めていました。
現代の私たちは、利益のために自然を破壊しています。
「野蛮とは何か」と、『金枝篇』を読みながら、私は深く考えさせられるのです。


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